【公開質疑応答その15】それを選んで生まれてきた

みなさんご存知のように(知らんか)私は7月いっぱいで3年間続けたホテルバイトを辞めました。サイコロさんに行けと言われて行き始め、辞めていいよと言われたので辞めました。

 

ホテルバイトはもともと修行でしたので(参考エントリー:私はなぜホテルバイトをしているのか)次なる修行を探すことにしましたが、帯に短しタスキに長し、なかなかこれといったバイト先が見つかりません。運動不足も心配です。バイト時の運動量がなくなってしまったら、あっという間に太ってしまうことでしょう。

 

とりあえず運動不足解消のために、とAmazonの配送センターで1日だけアルバイトをしました(詳しくはこちら)。あまりのしんどさに1日でケツ割ってしまいましたよっ。あのしんどさを思えばどんな仕事だって耐えられるはず、と思ったのですが、なんかもう辛抱の糸が切れちゃったみたいで、我慢できなくなってしまったのです!!

 

いくつかのバイト先で実際に働いたのですが、そこで知らされた恐ろしい真実。

 

バイトホテルは楽だった

 

他のバイト先はもっともっとハードでした!!

 

ホテル業界というのはどうも基本的にハードなとこのようで、あちこち面接に行って一様に驚かれたのですよ、よく3年も続きましたね!と。

 

ふーん、私って頑張ったんだ、すごいんだ、と内心ほくそ笑んでいたのですが。

 

が。

 

きっと楽ちんだったから続いたのでしょう。他のホテルでは続いていなかったのではないかと思われます。

 

条件にケチばっかつけてたらいつまでたっても決まらないわ、と、とあるホテルに腰を落ち着けることにしたのですが。

 

が。

 

もう吐きそうなほどしんどかった。こんなしんどいのに、なんでみんな平気でやれてるの?私が特別へなちょこなの?私ができないことをこなしている人がいる、というのがまた私をダメポ沼に沈ませるのですが、物理的に体力的に無理であるとあきらめがつきました。

 

へなちょこゆえではありますが、私はAmazonもハードなホテルバイトも、辞める、という選択肢を持つことができたのです。

 

しんどくても、辞めたくても、辞められない人もいるのです。

 

さて、ECDというラッパーさんがいます。私はラップやヒップホップには疎いので、私にとってECDさんはラッパーというよりアンチレイシスト行動の活動家としての姿しか知らないといっても過言ではありません(失礼。

 

ECDさんの奥さんの本が最近売れてますねー。

家族最後の日/植本 一子 

 

ECDさん自身の著書も遅ればせながら手にとりました。

失点・イン・ザ・パーク /ECD 

 

ECDさんの半自伝小説とのことで、いろいろやらかしたことに触れられているのですが、ハードな工事現場での描写に私は異様に反応してしまいましてね!

 

あちこちで建てられているビル、ビルの建設作業に携わる方はいっぱいいることでしょう。職種的にはそう珍しいものではないのでしょうけれど、自分の身近で遭遇したことはありません。

 

数量的にはレアなものではないでしょうけれど、実際に出会ったことがない。その実態に触れたことがないわけです。

 

ECDさんの著書で描かれていた現場のハードさを示すごく短い記述、それがえらいこと堪えたのですよ!

 

一歩間違えば死ぬかもしれないハードな作業。

 

それをしてくれてる人がいるからこそビルが建っているわけです。ビルは、死ぬ危険と隣り合わせの覚悟でお仕事をしてくれる人がいないと、できないのですよ。

 

Amazonの時も思ったのですが、人格を一切無視されたお仕事をやってくれている人がいるからこそ、Amazonの荷物は私たちの手元に届くのですよ。

 

私はAmazonの現場も逃げ出すことができて、危険な工事の仕事に携わる必要もありません。

 

かろうじて楽な場所に身を置くことができています。

 

これって、ほんとタマタマなこと。

 

私がAmazonの配送センターで腰を痛めることもなく、生コンの中に落ちて命を落とすこともなくいられるのは、ほんとタマタマなんです。

 

私がそれを選んだのかもしれません。それを選んで生まれてきたのかもしれません。

 

自分で選んだにしても、たまたまそういう采配に巡り合ったのだとしても、私がAmazonの配送センターにいても、過酷な工事現場にいても、おかしくないのです。

 

ほんとタマタマなんだ、という思いがやってきました。

 

その「タマタマ」与えられたものが本人にとって好ましいものであるなら、人はそれを僥倖というのでしょう。

 

某ビ◯ョ◯心理学では、バングラディシュへの支援活動をずっとされていて、なんでバングラディシュなんや?という疑問に対し、今世では私たちは「タマタマ」日本に生まれているけど、ひょっとしたら来世ではバングラディシュに生まれるかもしれない。今、現地でたいへんな思いをしている人の子孫として生まれ変わるかもしれない。将来の自分に対して支援をしてるようなものだ、といった意味合いの説明がありました。

 

そのときは、ふーん、としか思わなかったのですが、いまある状況が「タマタマ」なんだ、という感覚がやってきたら、居心地のよい状況についてはありがたいと思うと同時に、バングラディシュで貧困にあえいでいる立場だったらそれはなんと大変なこと!という思いがやってきました。

 

自己責任という考え方が物議を醸したときに目にしたものですが、海外というかキリスト教文化圏では、いま自分が手にしているものは「タマタマ」与えられたギフトである、自分の力で手にしたものではない。だからそれを与えてくれた存在への感謝の意味も含めてボランティアとか慈善活動に熱心なのだ、と。

 

それはとても納得しました。自己啓発系の憧れである海外の成功したセレブ、そういったセレブは手にした成功をギフトと思って、それを他者に配分するという義務を当然のように背負っているわけですが、日本に入ってきた成功メソッドには信仰の部分が切り離されてしまっているようです。

 

真理は何度でも貼りつけますよ。

「タマタマ」なんだ

 

これは「選んで生まれてきた」の対極となるものでしょう。そして、それを采配した大いなる存在を認めないことには成立しない考えでしょう。

 

しかし「タマタマ」与えられたものだからこそ、それを僥倖とありがたさを感じることができるのですねー。

 

ま、これは貰って嬉しいものに対する解釈です。

 

貰って嬉しくないものは?

 

病気や事故、艱難辛苦は?

 

それが「タマタマ」であるならば?

 

続く。

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